辻堂の記憶

書物には残らないかもしれない、でも忘れたくない辻堂の記憶をちょっとずつ残していきます。

武内宿禰タケノウチノスクネ

南町の人形山車は【武内宿禰タケノウチノスクネ】である。

 

〇はじめに

古事記日本書紀などに登場する日本最初の大臣で、2000年ほど前、5人の天皇、そして北町の人形【神功皇后ジングウコウゴウ】に大臣として仕えた。戦前(明示・大正)は紙幣にも肖像画が描かれていた。 

 

〇人形のシチュエーションについて

江戸時代末期の浮世絵(歌川国芳クニヨシ)で、北町の神功皇后が朝鮮に攻め入った際、そのそばで武内宿禰が、神功皇后の息子である応神天皇オウジンテンノウを抱きかかえているのが描かれている。

 

〇年齢

5人の天皇に仕えたことからも分かる通り、年齢は300歳を超えたらしい。謎の多い武内宿禰ですが、西日本を中心に祀られている神社があり、不老長寿のご利益があるとか。

辻堂八社

辻堂には小さい神社が8個ある。

諏訪神社や宝泉寺より先にできた。

 

西町

 ・八幡神社(ハチマンジンジャ)

   南を向いている

 ・白山神社(ハクサン)

 ・八ツ森稲荷神社(ヤツモリイナリ)

   八ツ森稲荷に頭を下げて、高砂の畑に行った

東町

 ・八ツ松稲荷神社(ヤツマツイナリ)

   諏訪神社の昔の社がある

 ・田畑稲荷(デンパタイナリ)

北町

 ・日枝神社(ヒエジンジャ)

   山の神様(山王様サンノウサマ)

元町五丁目

 ・子権現(ネノゴンゲ)

   案山子の神様、畑を守ってくれている(ある場所が字名、大荒久)

   裏を水道が流れていった→引地川に落ちる

二ッ谷

・二ッ家稲荷(フタツヤノオイナリサン)

  昔はもう少し駅寄り(本立寺よりは北側)にあったが、第二次世界大戦中に軍事物資(兵隊の服をつくる)の工場を建てるため、旧東海道(国道一号線)の向こうに移動させる。地名は『二ッ谷』だが、神社の名前は『二ツ家』。

辻堂の名前の由来

”辻”(四つ角)に”堂”(お寺)があったことが名前の由来。

2つ説がある。

 

1.旧北の寺のそばの辻が辻堂の名前の由来。

北ン寺(北の寺、宝珠寺、真言宗)が焼失する前は、現北町山車小屋の位置にあった(焼失後は線路そばに移動)。その四つ角の吉田さん宅の屋号が”辻”。また、明治に入る前は330cm(11尺)で一番広い道幅だった。鎌倉街道が通っている。

 

2.南の寺のそばの辻が名前の由来。

南ン寺(南の寺、宝泉寺、真言宗)。尼寺だった。

第六天

石井家の敷地内に第六天が祀られている。

8代目徳右衛門が、嵐が来て第六天(当時は木だった)が壊れてしまっていけないので、石板でつくった。当時は高砂へ向かう坂の上にあった。第六天の参道、松並木があった。なぜうちの土地になったのかは不明。11代目幸次郎が蔵を壊すタイミングで、自宅庭に持ってきた。

なぜ祀ったのかは不明。

 

一番目 天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)

 すべてのはじまり

六番目 於母陀流神(面足神 オモダルノカミ)

  地球の表面が満ち足りた時の現れた神様

七番目 イザナミイザナギ

 天照大神の親、生命をつくった神様

 

この後に天照大神アマテラスオオミカミ)が出てくる

御霊社

石井家横にある御霊社

 石長姫神(いわながひめのかみ)が祀られている

  辻堂の諏訪神社に祀られている建御名方神と八坂刀女神の長女。

  父親に似て、ごつい女の神様。結婚しなかった。

  次女は木花咲耶姫コノハナノサクヤヒメ):富士山の神様